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Escape vol.127 変わりゆく世界遺産の街─ブダペスト [MailMagazine]

Escape vol.127 変わりゆく世界遺産の街─ブダペスト

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つい最近までヨーロッパのアチコチは壁で区切られ、鉄条網が張り巡らされ、
気軽な観光客はもちろん、古くからの住民たちの往来に制限を加えていた。

“政治”という名のバケモノは、歴史あるこの大陸にいともたやすく線を引き、
東と西の人々が勝手に行き来できないルールを作った。
「ベルリンの壁」は東と西を分け隔てるシンボルであり、“政治”という名の力のオブジェであった。

その象徴崩壊の序曲はここから始まる。

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東西の冷え切った関係に終止符を打つ初めの一滴が、ハンガリーという国からもたらされたことは意外と知られていない。

小さな波紋は1989年に起きる。

この年の5月、ハンガリー政府はオーストリアとの国境にあった鉄条網の撤去を決定、大いなる英断をみせた。
これによりパスポートやビザが必要ではあったが、はるかに制限のゆるくなったハンガリーを経由して、
オーストリアへ向かう東ドイツ住民が激増、さらにこの夏、波紋はさざなみへと変化する。

ハンガリーの反政府団体が「東西ヨーロッパを自由に行き交う」というスローガンを掲げ、
『汎ヨーロッパ・ピクニック』というイベントを企画。
8月19日、東側諸国から集った参加者たちは、国境を越えたオーストリア・ショブロンの町を目指す。
ハンガリー、オーストリアの国境警備隊もこの集団を黙過、1000人近い東ドイツ住民が流れ出たといわれている。

この「ピクニック事件」の後も、ハンガリー経由の東ドイツ住民流出は後を絶たない。

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さざなみは波へと変わり、これによりベルリンの壁は無力化し、東ドイツ国内ではデモが頻発する。
東ドイツ政府の手に負えなくなった大波は、
東西対立のシンボルでもあったベルリンの壁をあっさりと飲み込むほどに成長する。

1989年11月9日「ベルリンの壁崩壊」。

ハンガリーから生じたひとしずくは凄まじいパワーを持った津波に変貌した。

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“ドナウの真珠”“ドナウの薔薇”と称されるハンガリーの首都ブダペスト。
王宮の丘がある西側旧市街のブダ・サイド、
東側平野部の新市街ベスト・サイドを抱くかのように、ドナウ河が南北に流れている。

オー・ブダ(古いブダの意)にケルト人が住み着いたことに始まり、
1世紀にローマ人が城塞を築き発展したブダの丘と、
美しい国会議事堂やオペラ座を抱えるベストの街は、渡し舟で結ばれていた。

1849年、ふたつの街をつなぐセーチェーニ橋が完成。
美しきドナウは“鎖橋”という美しいアクセサリーをまとい、さらに美しさを増した。

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「どこから来たのですか?」 
ベストの街なかでブダ行きのバスを待っていると、年配の男性に話し掛けられた。

コチラが恥ずかしくなるような美しい英語に戸惑いながら日本人であることを告げると、気さくな感じで話し始めた。
「いいときにアナタはこの国を訪れた」

「なぜですか? 開放された、というにはだいぶ時間がたっている気がしますが」

「西側との隔たりがなくなって十数年、数年後にはユーロ加盟が待っています」

「ますます発展する、ということですよね?」

「発展するでしょうね。新しいホテルが建ち、観光客が押し寄せ、看板を規制する法律がないのであちらこちらにホラ」
そういって指差した古いビルの上には、有名なスポーツ・メーカーの真新しい看板が不釣合いな感じで突っ立っていた。

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「今はまだ、古き良きブダペストが残っています。だからアナタに『いいときに訪れた』といったのですよ。
この街は昔の色がドンドン薄まって、西側の経済力に染まっていってます。
もっとも東側の頃の色合いに戻してくれ、なんて言うはずはありませんがね」  

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ドナウは美しく静かに流れていた。

ここが東側であろうと西側であろうと…。

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